【注釈】
(1)水羽信男「抗日統一戦線運動史」(『日本の中華民国史研究』、汲古書院、1995年、99~121頁)。
(2)例えば、Wen-Shun Chi, Ideological conflicts in modern China-democracy and Authoritarianism,Transaction Books.などが挙げられる。「左翼反対派」に斎藤哲郎『中国革命と知識人』(研文出版、1998年)の研究がある。「中間路線論」に関して、平野正と水羽信男が一連の論争文が発表された。なお、この問題については、平野正『中国革命と中間路線論問題』(研文出版、2000年)を参照せよ。
(3)近年、許紀霖らは新自由主義の枠組から、中間党派の一部の人物に関する社会民主主義的思想の性格を指摘した(許紀霖「現代中国的社会民主主義思想」『二十一世紀』、第42期、1997年8月号)が、これは主に思想と文化論からの視点で、政党論ではない。この点については、また水羽信男「近代中国のリベラリズム」(『アジア社会文化研究』第2号、2001年3月、55~74頁)を参照せよ。
(4)拙著『中国革命と第三党』(慶應義塾大学出版会、1998年)、87~93頁。
(5)張君勱「我従社会科学柳到哲学的経過」(『中西印哲学文集』、台湾学生書局、1981年)、『張君勱集』(群言出版社、1993年)、44~45頁。
(6)張君勱『社会主義思想運動概観』(稲彩香出版社、台北、1988年)3、6頁。
(7)「羅隆基復信致施滉」(聞先明・侯菊坤編『聞一多年譜長編』、湖北人民出版社、1994年)225~227頁。
(8)羅隆基「我在天津『益世報』時期的風風雨雨」(『愛国名人自述』花城出版社、広州、1998年)384頁。
(9)謝氷編『羅隆基―我的被捕経過与反感』(中国青年出版社、1999年)、11~12頁。葉永烈編『王造時―我的当場答復』(中国青年出版社、1999年)77~80頁。
(10)羅隆基「専家政治」(『人権論集』、新月書店、上海、1930年)169~184頁。記者「我断要説的話」(『再生』創刊号、1932年5月20日)16頁。
(11)左玉河『張東蓀伝』(山東人民出版社、済南、1998年)18頁。
(12)張東蓀『理性与民主』(上海商務印書舘、上海、1946年)4頁。
(13)張東蓀「第三種文明」、『解放与改造』、第1巻第1号。
(14)張東蓀「世界共同之一問題」、『時事新報』、1919年1月15日。
(15)張東蓀「現在与将来」(『改造』、第3巻第4号、1920年12月15日)、同「一個申説」(『改造』、第3巻第6号、1921年2月15日)。
(16)前掲『理性与民主』、4~5頁。
(17)前掲『張東蓀伝』、293頁。
(18)菊池貴晴『中国第三勢力史論』(汲古書院、1987年)、172頁。
(19)「中国国家社会党簡史」(「中国民主社会党等党派全宗祉集亀案」、中国第二歴史亀案館編『中国民主社会党』亀案出版社、1988年)、2頁。
(20)陳独秀「社会主義批評」『新青年』第9巻第3号。
(21)記者(張東蓀)「我断要説的話」『再生』創刊号、1932年5月、1~60頁。
(22)張君勱「国家民主政治与国家社会主義」『再生』第3期、1932年7月、30~39頁。
(23)黄嶺峻「30-40年代中国思想界的『計画経済思潮』」(『近代史研究』2000年第2期)、陳先初「評張君杤的『修正的民主政治』主張」(『湖南師範大学社会科学学報』1999年第4期)。
(24)前掲「我在天津『益世報』時期的風風雨雨」、371~386頁。「解決猪変的合理途経」(『益世報』、1933年11月23日)。
(25)張東蓀「評共産党宣言並論全国大合作」(『自由評論』第10期、1936年2月7日)。
(26)『国聞周報』第14巻29期、1937年7月20日。
(27)「国家社会党代表張君勱致蒋介石濫精衛書」(前掲『中国民主社会党』)、79~85頁。
(28)「蒋介石濫精衛復張君勱書」、同上、82~83頁。
(29)張君勱「『立国之道』新版序」(前掲『中国民主社会党』)、186頁。『立国之道』商務印書館、桂林、1938年)、2頁。
(30)俊生「中国国家社会党」(『再生』第34期、1945年12月)。
(31)『黄炎培日記摘録(徴求意見稿)・中華民国史資料叢稿』(以下「黄炎培日記」と略す)増刊第五輯、1979年12頁)、前掲張君杤『社会主義思想運動概観』、9頁。
(32)「中国民主社会党政綱」(「国民政府国史館亀案」)(前掲『中国民主社会党』)152頁。また張君勱「民主社会党的任務」(『再生』週刊第160期、1947年4月)3~5頁。
(33)王厚生「中国民主社会党的政治路線」(『再生』週刊第186期、1947年10月)10頁。
(34)前掲「中国民主社会党政綱」(「国民党政府国史館亀案」)。
(35)前掲張君勱「民主社会党的任務(続)」(『再生』週刊第164期、1947年5月)2~4頁。
(36)毛以享「民主政治下之計画経済」(『再生』週刊第183、184、185期)、前掲黄嶺峻「30-40年代中国思想界的『計画経済思潮』」。
(37)Roland Felbert und Ralf hubner ,Chinesische Demokraten und Revolutionare in Berlin(1925-1933),WissenschaftlicheZeitschrift,der Hmboldt-Universitat zu Berlin,37. Jg.1988.
(38)トマース・メール著、殷叙厖訳『社会民主主義導論』(中央編訳出版社、1996年)。
(39)王楯・楊祖功『欧州民主社会主義』(社会科学文献出版社、1991年)。
(40)梅日新・鄧演超主編『鄧演達文集新編』(広東人民出版社、2000年)、462頁。
(41)「中国国民党臨時行動委員会政治主張」(『革命行動』第1期、1930年)62頁。
(42)F・ナフタリ著、山田高生邦訳『経済民主主義―本質・方途・目標』御茶の水書房。
(43)エドゥアルト・ハイマン(1889~1967)、1924年にハンブルク大学の教授、社会民主主義の理論家。33年以後、ナチのユダヤ人圧迫から逃れ渡米。
(44)前掲『社会民主主義導論』。また野尻武敏他訳『近代の運命』(新評論、1987年)参照。
(45)同論争については、鄭樹清著、江頭数馬訳『社会主義市場理論の系譜』(日本大学商学部、1993年)、鈴木春二『20世紀社会主義の諸問題』(八朔社、1997年)。
(46)『第三党與民族革命』(抗戦行動社、1938年)1~12頁。また「臨時行動綱領(1935年11月10日)」(章伯鈞主編『中華論壇』第10~11期、1945年12月1日)19~23頁。
(47)『中国農工民主党簡史(徴求意見稿)』(中国農工民主党党史資料研究委員会、北京、1982年)6頁参照。
(48)「中華民族解放行動委員会抗日戦争時期的政治主張」(1938年4月)、(前掲『中国農工民主党歴史参考資料』第三輯)、50~66頁。
(49)章伯鈞「中国農工民主党第四次全国幹部会議党務報告」(1947年2月3日)、(前掲『中国農工民主党歴史参考資料』第四輯、1981年)、4頁。
(50)前掲『中国農工民主党歴史参考資料』第四輯、1~21頁。
(51)主に中国青年党、中国国家社会党、第三党、救国会、中華職業教育社、郷村建設派を指し、一部の無党派の有力者も含む。
(52)民主同盟の時期、青年党の勢力が主力となっている。羅隆基「従参加旧政協到参加南京和談的一乂回憶」(『文史資料選輯』第20輯、1961年)、また梁漱粡「記中国民主政団同盟」(『梁漱粡自述』専江出版社、桂林、1996年)246頁の注を参照。
(53)例えば平野正は戦後民盟の路線を「中国型の民主主義を創造する」ととらえ(平野、前掲書112頁)、また西村成雄は政治的民主主義と解釈している(西村、前掲書215頁)。
(54)「中国民主同盟綱領草案」(『中国民主同盟歴史文献(1941―1949)』文史資料出版社、1983年)、26~30頁。
(55)左亡生「近三十年見聞雑記」(沈雲龍主編『近代中国史料叢刊』第五輯、文海出版社、台北、1967年)530頁。
(56)「訪問章伯鈞先生」『重慶新民晩報』1945年12月22日。
(57)中国民主同盟臨時全国代表大会政治報告」(前掲『中国民主同盟歴史文献(1941―1949)』)、76頁。
(58)同上、75頁。
(59)ラスキ「中国勝利展望に関する感想(Reflections on the Prospects of Chinese Victory)」(『大公報』、重慶、1944年10月8日)。その他に『大公報』は、公孫度「認識蘇聯」(1944年5月21日)、翁秀民「民主政治と計画経済」(10月22日)、威洛克(Wilfred Wellock)「向中国進一警告」(1945年1月24日)、斯密爾諾夫「蘇聯民主的経験」(1月28日)、「社評 今後的蘇聯」(6月22日)、伍啓元「民主経済和経済民主」(1946年2月10日)などを掲載した。
(60)津野田興一「羅隆基の戦後民主主義構想」(『近きに在りて』19号、1991年)、6頁。
(61)前掲「我断要説的話」、23頁。国家社会党のソ連計画経済の見解については、張君杤「我之俄国観」(『再生』第一巻第五期)、「経済計画與計画経済」同上第二巻第二期参照。
(62)祝世康「戦後経済民主化之我見」(『中華論壇』第3期、1945年3月16日)。
(63)前掲「中国民主同盟臨時全国代表大会政治主張」、84~85頁。
(64)「中国国民党臨時行動委員会政治主張」『革命行動』第1期、1930年、59頁。
(65)「訪問張君勱先生」(『重慶新民晩報』、1946年1月21日)。前掲「黄炎培日記」48頁。梁漱粡「予告選災・追論憲政①」(『大公報』1947年9月21日)。
(66)抗日戦争中は左亡生が実質的に党首の責務を果たしていた(沈雲海『曽慕韓(苹)先生年譜日記』中国青年党党史委員会、台北、1983年、174頁)。
(67)「中国民主同盟二中全会政治報告(代宣言)」『大公報』、1947年1月31日。
(68)同上。
(69)「中国民主同盟中央組織委員会関於拡大加強組織推進民主運動通知」(前掲『中国民主同盟歴史文献(1941―1949)』)301頁。
(70)「中国民主同盟今後組織工作計画(1947年1月10日)」(前掲『中国民主同盟歴史文献(1941―1949)』)370~371頁。同上。
(71)「一個中間的政治路線」(『再生』週刊、第118期、1946年6月22日)。
(72)施復亮「何謂中間派」『文祉報』1946年7月14日。またこの問題に関しては、平野正と水羽信男の「中間路線論」に関する、一連の論争文を参照せよ。
(73)この時期、『文祉報』には民族ブルジョアを代表する論評が多く掲載された。陶大鎌「論工業的民主主義」(1946年5月12日)、「経済民主之路(星期座談)」(1946年7月6日)、前掲「黄炎培日記」163頁。
(74)施復亮「中間的政治路線」(『時与文』、1947年3月14日)。
(75)民主建国会の第三党や救国会に対する不満は前掲黄炎培日記138頁参照。
(76)「中国民主同盟対時局宣言」、同上、323頁。
(77)関連文献は果尚思主編『中国現代思想史資料簡編』(第五巻)寃江人民出版社、1983年に収録。また前掲『中国革命と中間路線論問題』を参照。
(78)『華商報』、香港、1947年10月28、29日。
(79)民盟の新指導部は沈鈞儒と章伯鈞を中心とし、中共秘密党員の周新民が代理秘書長、南方民盟総支部委員の沈志遠が宣伝委員会主任代理、民盟港九支部主任委員の結裕芳が国内関係主任代理、南方民盟総支部委員の薩空了が国外関係委員会主任代理、救国会系の劉王立明が財務委員会主任に就いた。南方民盟総支部と三中拡大全会の関係は李伯球・郭翹然・胡一声『南方民盟闘争史略』(陳宏文整理、謄写版、出版年不詳)参照。三中全会時の民盟内の分裂状況と上海の動きについては前掲「黄炎培日記」164頁参照。「社評 民盟的新政治路線」『華商報』1947年1月21日の論評記事も参考になる。
(80)「中国民主同盟一届三中全会緊急声明(1月5日)」『華商報』1947年1月6日。
(81)「民盟三中全会宣言」『華商報』1947年1月21日。
(82)前掲「民盟三中全会宣言」。
(83)三中全会に際しては、沈鈞儒が全体の協調、章伯鈞が政策の作成、周新民が総務を担当した(民盟中央文史委員会『中国民主同盟簡史』、112頁)。
(84)楚図南「我的片段回憶」(『多党合作紀実』中国文史出版社、1993年、340~341頁)、前掲『張東蓀伝』、428~448頁。
(本文原载姫田光義編『戦後中国国民政府史の研究』、中央大学出版部、2001年107~131頁)
http://www2.chuo-u.ac.jp/up/isbn/ISBN4-8057-4136-8.htm
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本帖最后由 NZWJ 于 2009-1-18 12:07 编辑 ]